河原町星屑通東潜ル

短歌とエッセイ。Twitter https://mobile.twitter.com/moeori

となりのコンビニ

わたしの実家の数件隣にはコンビニがある。

徒歩1分以内と言えるだろう。

昔は駄菓子屋だったその土地にコンビニができたのはわたしが幼稚園の頃だったと思う。

もう駄菓子屋の様子が思い出せなくなるほどの長い間、そのコンビニはその場所で営業している。

 

実家に用事があるとそのコンビニにも顔を出す。

オーナー店長のおじさんは町内会でうちの隣組(回覧板を回し合うグループ)なので、顔見知りだ。

 

店長さんはわたしを見かけると

「よっ、今どこ住んでるの?」

と気さくに声をかけて来てくれる。

転勤族みたいな暮らしをしているわたしはその質問にざっくりと答える。

「今は東海ですねー。日本海側はやっぱり明るいです」

「お、東海ならおじさんの昔の彼女が名古屋の人でさ〜」

質問はするけれど店長さんはわたしの話に深く立ち入らない。

わたしにはそれがありがたい。

 

実家の父はろくでもない死に方をした。

そうなるまでのゴタゴタは周囲にも伝わっているはずだ。

それ以前にも、夜中にコンビニへパジャマのまま逃げ込んで少年ジャンプを読んでいたわたしを店長さんは知っている。

 

お互い東京に実家があるのにあえて転勤族になった夫を連れて行けば

「良さそうな旦那さん捕まえたね〜!」

と背を叩くけれど、

実家を出て結婚してもう何年も経つのに、子供を連れていないことに対しては店長さんは何も言わない。

 

ただそのコンビニへ行くと、

「おかえり!元気そうだね」

そう言ってモップ片手に笑顔を見せる。

 

わたしは実家にも

「お邪魔します」

と言って入るのに、そのコンビニの店長さんには

「ただいまです」

そう言って、笑ってしまうのだ。

3000冊を思い出しながら〜徒然推薦図書〜

 

1000〜2000冊の本を読んだという人のおすすめ本がわたしにはまったく刺さらなかったので、わたしが人に薦めるならどの本がいいかなあと考えてみました。

 

そうですね、一番多く再読している本であれば、太宰治人間失格ですし、最近再読して楽しかったのは森博嗣の『四季』シリーズ

森博嗣はあのすべてがFになるを含むS&Mシリーズから始まる森博嗣ワールド楽しいんですよねー。同じ世界線を舞台に主人公が変わっていく小説群。

ワールド、みたいな観点でいうなら森見登美彦の腐れ大学生ワールドも大好き。代表作なら京都が舞台のラブストーリー夜は短し歩けよ乙女でしょうけれども、わたしは書簡形式小説の『恋文の技術』もおすすめしたい。

夜は短し歩けよ乙女』は本屋大賞の2位で紹介されてた時に表紙が可愛くて買ったんですよね。ジャケ買いです。

本屋大賞といえば、最近のものなら凪良ゆう『流浪の月』が好きでした。誘拐犯と誘拐された少女の、誘拐の後日談としての物語。ああいうままならない恋愛ものも一時期すごいはまってましたね(『流浪の月』が“恋愛”の区分に入るかは微妙ですが)。

ままならない恋愛というなら島本理生が自分的にダントツ。有名なのは大学生と、その高校時代の教師の恋愛小説ナラタージュですが、わたしは主人公の名前が一切出ない恋愛小説『あられもない祈り』か、二人の男性(三人?)の間で揺れ動く『イノセント』を推したい。『イノセント』は苦悩する一人が神父なのが個人的におすすめポイント。

 

…なんだか最近の小説に偏ってますね?

最近のもの以外から選べというなら、二番目に再読回数が多い本を。

わたしが『人間失格』の次に再読を重ねているのは、ドストエフスキー罪と罰。教養のために、などと思って読んだのですが、面白かったですね。主人公やヒロインより、主人公の妹のドゥーネチカが好きでした。ドストエフスキーならカラマーゾフの兄弟も古典新訳文庫と岩波文庫で読みましたが、岩波版が好きですね。未完なのがもったいない…。

ロシア関係ならロシア語の先生をしてらっしゃる黒田龍之助先生の『ロシア語だけの青春』がわりと最近ちくま文庫で出ましたね。あれは語学を志す人間には良い本です。黒田先生がロシア語に出会い、魅了されて突き進んでいく様子を観察できるエッセイです。語学分野なら同じ黒田先生の『ロシア語の余白の余白』あるいは『寝る前5分の外国語』が良いですね。『ロシア語の余白の余白』はロシア語話者あるある〜みたいな感じの本で、『寝る前5分の外国語』は黒田先生がいろんな言語の語学書を試し読みする本。いやー、世界にはいろんな言語がありますね…。

言語や勉強に関する本なら読書猿さんの『独学大全』は外せないですね。辞書とか手引のように使うことを想定された本ですが、通読してからのほうが全体を余すことなく使える気がしてます(ただし鈍器本)。

鈍器本、といえば京極夏彦先生ですよね。姑獲鳥の夏とか1冊の厚みがとんでもないですし、オチもとんでもない…。こんなのアリ…?ってなりました。

ただ、シリーズの厚み、となると他の本もいろいろありますね。(シリーズの厚みかつ1冊の厚みなら川上稔境界線上のホライゾンになりそうですが…)

わたしが1シリーズとしてかなり長かったと感じたのは小川一水『天冥の標』シリーズ。架空の病気のパンデミックが話の中心のSFです。シリーズが長いだけでなく作中時間の長さも億年とか余裕で超えてくる長さでした。

パンデミックといえばカミュ『ペスト』はコロナ禍の流行の間に読みました。病を前にした人々の振る舞いを読んでいると、コロナ禍含め、病原菌やウイルスと人類との歴史を考えてしまいますね。

それで言うならジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』もすごかったです。私淑している先輩に倣って読みました。歴史とは人間が意識的に作れるものではないようです。

歴史といえば山川の『もういちど読む山川日本史』『もういちど読む山川世界史』は大人になってから読んで良かった本に含まれますね。学生だった昔より歴史が深く楽しめます。なんとなくで歴史を学ぶより、何があったから、何故今こうなのか?を考えながらのほうが気づきがありそうです。

学生のころは司馬遼太郎歴史小説は好きでした。燃えよ剣とか。土方さんの最期の台詞が格好良すぎる……。最近はいわゆる司馬史観の問題点とかも聞くのですが、あれはあれですごい功績だと思います。歴史小説といえば最近は吉川英治『新・平家物語を読んでいます。敦盛のあたりとか、たぶん古典そのものよりはいろいろ脚色されているのでしょうけれど、まあ小説ですので楽しくて良いのです。

歴史を面白く、というのではなく、歴史をなるべくその場にいた人の目線で、となると日記文学になってくるのでしょうか。昔の貴族の日記とかだと、合戦物として古典文学で盛り上がってる戦がわりと他人事扱いだったりするんですよね。後深草院二条とはずがたりはそういう感じ。元寇なんかより上皇のご病気が〜!みたいな雰囲気の描写に、そうか、当時はそんな感じなのかー……と驚いたり。

とはずがたり』は渡部泰明先生監修の杉田圭『恋いのうた。』有明の月のところが漫画になってましたね。妄執に駆られた高僧……。有明の月も、雪の曙も、後深草院もそれぞれに欠点はあれど、二条にとっては大切なロマンスだったのでしょう。

渡部先生は最近は『100分de名著』の古今和歌集も携わってらっしゃいましたねー。

その『古今和歌集』をボロッボロに叩いてるのが萩原朔太郎『恋愛名歌集』古今和歌集含め勅撰集から朔太郎チョイスの名歌を集めたアンソロジー古今和歌集憎しなのは、古今和歌集をよいしょしていた当時の文学界への恨みつらみから……?

そんな朔太郎の作品含め、文豪の作品が素敵な絵師様たちの手で絵本チックになっている「乙女の本棚シリーズ」も好き。夢野久作『瓶詰地獄』とか、泉鏡花『外科室』とか持ってます。『外科室』の後半の台詞と、繰り返しの部分が、ずっと昔の小説なのに響きます。

『瓶詰地獄』には『聖書』が出てきますけれど、今わたしは新共同訳で読んでる最中です。宗教関係の基礎を抑えたくて……。

宗教といえば魚豊『チ。』はすごかったですね!天動説VS地動説というか、宗教VS真実への知識欲、みたいな。わたしもできれば知識欲の側に立っていたい。

地動説云々なんて今では過去の話ですけれど、まだまだ人間にはわからないことがたくさんあってそれを求めている人は格好いいですね。そういう考えなので理系の人が好きです。

JAXA川口淳一郎さんのはやぶさ そうまでして君は』とか科学系ノンフィクションなのに下手な小説より胸熱で泣けました。はやぶさは奇跡と浪漫の塊ですよ。いやー、科学者って格好いい…。

科学者ですが格好いいというより笑ったのは前野ウルド浩太郎さん『バッタを倒しにアフリカへ』。ぜひ表紙だけでも見てほしいのですが、表紙から攻めすぎてません??……良いですよね!!?

理系ノンフィクションならサイモン・シンフェルマーの最終定理は鉄板でしょう。数学という温度をまったく感じていなかったジャンルに感動するとは…。それにしても「ここに記すには余白が」とか丸投げ甚だしい……。

ノンフィクション系なら北海道の熊害ノンフィクション、木村盛武『慟哭の谷』も前半は良かった。後半はなんと言いますか、好みが分かれそうですけれど…。今年は熊害が全国的に話題になりましたね。

熊そして北海道といえば野田サトルゴールデンカムイは昨年あたりブームになりましたね。関連図書として出ていた中川裕アイヌ文化で読みとく「ゴールデンカムイ」』も興味深く読みました。アイヌならアイヌ神話の絵本、萱野茂『木ぼりのオオカミ』も良かった。

アイヌ語白水社のニューエクスプレスシリーズの語学本の棚に並んでいたような……?ニューエクスプレスは日本だとなかなか見かけない言語の取り扱いがあって、並んでいる棚を眺めているだけで楽しいのですよ。ニューエクスプレスでは最近『ニューエクスプレス ウクライナ語』を図書館で立ち読みしました。ご時世もありますし、ウクライナ関係本も読んでみたりしてます。とはいえウクライナ関係の本を探すのはなかなか日本では難しいですね。そんな中でも平野高志ウクライナファンブック』は本屋で平積みされているのを見ました。これは良い本でした。後半は旅行ガイドっぽくなっていて今のウクライナの雰囲気を味わえますし、前半はウクライナの歴史も扱っています。

旅行ガイドといえば、地名が出てくる本はガイド本そのものでなくてもその土地に行ってみたくなりますよね。いわゆる聖地巡礼。わたしが聖地巡礼したのは西尾維新戯言シリーズ2巻目クビシメロマンチスト人間失格・零崎人識〜』西尾維新のデビュー作クビキリサイクル〜青色サヴァン戯言遣い』のシリーズ(戯言シリーズ)ですね。人識くん登場の巻。聖地巡礼で京都をうろうろしました。西尾は化物語で始まる物語シリーズで一躍有名になりましたが、わたしとしては戯言が一番です……!ヒロインの青色サヴァン(もしくは“暴君”、“歩く逆鱗”、“デッドブルー”または“絶縁娘”)こと玖渚友ちゃんが人生最推しです。今年は戯言の正統続編『キドナプキディング〜青色サヴァン戯言遣いの娘〜』も出ましたが、キドナプの続きは、盾ちゃんの物語の続きはいつか出るのでしょうか…?

 

まだまだ続いてしまいそうなので、とりあえずわたしが半生をかけて追いかけてる推しの物語が出たところで今回は打ち切ります。

 

あなたに刺さる本がどこかで見つかりますように!

 

雨と猫と町

 

雨よけをさがして走る猫の背に降るしずくすらあたたかな町

 

#短歌 #tanka

 

 この町は冬場は雨が少ない。太平洋側の気候の特徴として冬場は乾燥するというのは教科書の通りなのだけれど、それを意識したのはこの町に来てからだと思う。

 そんな町でも時々は雨が降る。といっても傘をさせば何も問題ない程度の雨だ。わたしは傘をひろげて町を歩いていた。

 

 今いる町は坂の多い町で、自然と息があがってしまうような坂道も多い。その雨の日に歩いていたのもそんな坂道だった。

 

 急すぎる坂だからか、その坂には空き地がいくつかあって、ソーラーパネルが並んでいた。

 ソーラーパネルは、前の町では見かけなかったし、生まれ故郷でも見たことはほぼなかった。それがこの町では一般家庭の屋根や空き地、いたるところで見かける。この町は日照時間が長いからだろう。

 わたしがまだ見慣れないそれを見ていると、目の前を白黒の猫が横切った。まだ若そうなその猫はソーラーパネルの下にもぐりこむと毛づくろいをはじめた。

たしかに猫が雨宿りするのにはちょうどいい場所のようだ。雨はしっかり避けられるし、人間は入ってこない。

わたしが横を通っても、猫は逃げるでもなく前脚をなめていた。

 

 

 前に住んでいた町は日本海側の雪国だった。今頃はもう雪が降っているはずだ。

冬場の気温はマイナスになるし、地元の人は1メートルの積雪で「まだ少ないね」と言うような町。

 その町ではほとんど野良猫を見かけなかった。寒いから、野良猫が生きるには難しいのかもしれない。

 

 あの町の冬は、静かだった。

雪がすべての音を吸い込みながら、町を白く埋めていく。猫どころか、冬場に歩いている人はほとんど見かけない。車が通る大きな道路を外れれば、動くものは降り積もる雪片だけになる町。

 わたしはその町を歩くのが好きだった。車の運転をしたくない事情があり、雪だろうと雨だろうと歩くしかなかったというのもあるけれど、わたしはスノーブーツを履いてその雪国を歩いていた。

 

 歩道と車道の間にはわたしの身長より高い雪の壁ができている。除雪車が車道からどかした雪だ。そのうちその壁を削って雪を回収していく作業車が来て壁の厚みが減ることはあれど、春まで壁がなくなることはない。なんなら大型店舗の駐車場などの雪は桜が咲いても残っていた。

 

 

 今いる町は、3月半ばには早咲きの桜が咲く。濃い色をした桜が川を縁取るようにずっと並んでいるその川沿いの道でわたしは自転車を走らせる。前の町で買った自転車は、雪道の悪路っぷりにほとんど走らせないまま、その雪で錆びて処分してしまった。坂の多いこの町で走らせているのは新しく買った電動自転車だ。

 

 自転車で走っていても、歩いていても、この町で見かける猫は逃げない。なんとなくのんびりしている。

 

 猫のいる町。

 雪の降る町。

 ありとあらゆるものが違う町と町。

 

 

 実家を出てから、ずっと旅をしているような気分でいる。

 わたしが最後に落ち着くのはどんな町なのだろう。

挽歌としての相聞歌

 虚構のラブストーリー。

木下龍也と鈴木晴香の共著歌集、『荻窪メリーゴーランド』の帯の言葉だ。
 
 虚構と現実ではやはり現実の方が重みがあるとは思う。けれど虚構でしか描けない風景も存在するし、望まぬ現実があるのと同じくらいに望んだけれど訪れなかった現実もある。
 
 わたしの恋愛の話を他人にすると「ドラマみたい」「小説?」など言われることが多い。虚構めいた現実を生きてきたという自覚はある。
それを短歌に変換するにはまだ技術が足りない。どうしても起こったこと以下のものしか詠めない。プロの歌集を読むと31文字でこんなに広がりがあるのに、何故わたしの書いたものには広がりを感じられないのか。奥行きであるとか、深みであるとか、伝えたいものが伝わらない。上澄みと言うにも足りない。搾り滓の滓のほうだけ。絞った果汁はどこへ行ったのか。
仮にわたしが詠みたい歌を詠むだけの技術を手に入れたとして、わたしはその時、あの恋を歌にする覚悟があるのだろうか。自分の心を切り売りすることにならないだろうか。それとも未来の自分が傷つくことを承知して、あの日々を形にしたいと思えるのだろうか。わからない。
 
 技術もないし覚悟もまだない。なのでどこにも発表はしないけれど、『荻窪メリーゴーランド』を読みながらわたしは自分の恋を歌集に編むなら、と脳内で編集作業を始めていた。書かずには詠まずにはいられない自分の性質が、歌集を作る前の手始めにこの文章を書かせている。
 
 虚構めいた現実を理想通りに歌えたら、それはきっと過去のわたしへの手向けになる。
 


 まだわたしが僕という一人称だった頃、僕は恋をしていた。
とある事件があって、「僕」は死んでしまった。

それから記憶のない数年があって、死んだように生きていた数年がさらにあって、六年半前からわたしはわたしを生きはじめた。
 
死んだ僕を、僕が満足する形で葬る。そうすればわたしは軽やかに生きていける気がしている。


そのために、わたしは相聞歌の顔をした挽歌を編む。

夜行バス揺られてきみに会いにゆく窓の外には知らない夜景

 

夜行バス揺られてきみに会いにゆく窓の外には知らない夜景

 

#短歌 #tanka

 

夫と遠距離恋愛をしていた時期がある。

 

夫もわたしも関東の生まれで、同じ高校に通っていた。

病気で高校を辞めたり入院したり大学留年したり…というまわりくねった遠回り人生のわたしに対し、夫はストレートで大学院まで行ったので、夫が就職した頃には、わたしはまだ大学生だった。

夫の就職先は関西だった。

 

東京駅のバス停から夜行バスに乗り込む。

目的地までは11時間。

23時発のバスに乗っても、向こうに着くのは朝の10時だ。

 

バスに乗り込むと時間も時間なのですぐに車内の照明は消される。

車窓につけられたカーテンの端をめくって、外の景色を眺めていた。

 

夫が関西に就職を決めたのはわたしが原因だった。

「地獄のような」と形容しても差し支えない実家から逃げたいと常々言っていたわたしを遠くに連れ出すために、夫は関西に就職を決めた。

京都が好きで、家出のようにしょっちゅう一人旅をしていたわたしが、関西ならのびのびできると思ったらしい。

大学生活最後の1年を我慢したら、わたしは実家を出て夫と暮らすことを決めていた。

 

窓の外の景色はだんだんと知らないものへ変わっていく。

そんな知らない町にも、それぞれ人が住んでいてそれぞれの生活がある、と思うと、意外とどこに行っても暮らしていけるような気がした。

 

「待ってます」

というメッセージにスタンプで返事をして、車窓を流れる夜景を眠るまで眺めていた。

祖母たち。

夫の祖母が亡くなった。

おばあさんはわたしたちが入籍する少し前に脳梗塞を起こしてしまい具合が悪かったので、結婚の報告にも行けないままだった。

おばあさんとは高校生の頃に何度か会ったことがある。夫とは高校からの付き合いなので、学校帰りに夫の実家に行くとおばあさんが

「よく来たねえ。お菓子食べる?」

「今日はアイスがあるよ」

といろいろ出してくれた。

自分の実家の祖母が少し苦手だったわたしは、夫の家のおばあさんが好きだった。

 

自分の実家の祖母は「死にたい」が口癖だった。今思えばあの家の環境なら仕方がないのだけれど、子供だったわたしはその口癖を聞くのが嫌でたまらなかった。

自分の祖母ーーおばあちゃんはある日転んで骨折したのをきっかけに施設へ行ってしまった。自分で歩けなくなったおばあちゃんはどんどん認知症が進んで、たまにしか見舞いに行かないわたしのことは誰だかわからないみたいだった。

でも、おばあちゃんは幸せな呆け方をした。

施設に入ってからのおばあちゃんは「ありがとうよ」が口癖のかわいいおばあちゃんになった。誰だかわからないわたしにも「よく来たねえ」「かわいい手して」と言いながらわたしの手をさするのだ。

家にいた頃よりにこにこして車椅子に乗るおばあちゃんを見てわたしは本当に良かったと思った。

 

夫のおばあさんはお義母さんいわく、脳梗塞で性格が変わってしまったらしい。

お互いに可哀想なことになるだろうという配慮のもと、わたしたちは入院後のおばあさんを知らないままにおばあさんは亡くなった。

 

ご遺体の髪の毛は真っ白になっていて、昔お会いしたときのおばあさんとは違っていた。大叔母さんが「染めるのもできなくなってしまったのね」とこぼした。髪の色の違いに会わないまま過ごしてしまった時間の長さを感じた。

 

苦手だったはずのおばあちゃんはかわいいおばあちゃんになった。

好きだったおばあさんは会えないくらいに変わってしまった。

自分は歳を取ったときどうなるのだろう。

 

わたしは今、おばあさんがアイスをくれた夫の実家にて、おばあさんもいつか見たはずの、夫の家からの朝焼けを眺めている。

 

ネクターの跡地

自販機のそこにいたはずネクターは覚えているのは僕だけだけど

#短歌 #tanka

 

*

 職場の自販機からネクターが消えた。

 

 ネクターが消える数日前のこと、先輩パートのお二人が自販機の前で話をしているところに通りかかった。

「あ、こいしちゃん。こいしちゃんはネクター飲む?」

「はい、ネクター好きですよ」

「え、そうなんだ。そっち派なんだ…」

 そっち派とは……。たしかにわたし以外でネクターを飲んでる人をこの職場で見かけたことはないけれど、そんなに少数派なのだろうか……。

と思っていたらネクターは自販機から消えてしまった。

 

*

 

 実家は旧家の分家だった。近所に本家があって、本家は平成の途中まで囲炉裏をそのまま残してあるような古い建物だった。本家に用事がある父に連れられ、その古くて薄暗い家に何度か立ち入った記憶がある。本家には自分とどういうつながりかもわからないおばあさんがいて(父方の血縁関係はやたらと複雑だった)、会うたびに毎回「大きくなったねえ」と言ってネクターを差し出してきた。

 本家はエアコンなんてない古い家なのにいつもひんやりとしていて、大人たちが何か話をしている間、わたしは縁側でネクターを飲んでいた。父と祖母も以前は本家に住んでいて、祖母はたまに本家の昔話をした。

 

「本家の二階にはお蚕さんがいて、夜中になると、しょりしょり…しょりしょり…と桑を食む音だけが聞こえたもんだ」

「戦争の時には蔵にしまってあったご先祖様の刀も持っていかれちまった」

 

 ネクターの缶を両手に抱えながら、後ろを振り向く。二階から今はもういないはずの蚕が桑を食べる音が聞こえるような、薄暗い部屋のどこかに日本刀がきらめいたような、なんとなく薄気味悪いものを感じ取って、それを振り払うように縁側に向き直る。

 ネクターをくれるおばあさんと祖母はそこまで大きく年は離れていないように見えるが、その二人の関係も知らない。暗がりで話す親族を遠目に見つつ、よくわからないということはこわいことだと、ぼんやりとわかった気がした。

 

*

 どろり、としたネクターの喉越しが昔は苦手だった。本当に苦手だったのは喉越しではなく、ネクターを飲むと思い出すあの薄暗さなのかもしれないけれど。

 

 本家の建物は平成の後半に建て直され、普通の建物になった。わたしはその普通の本家には足を踏み入れたことがない。

 

 ネクターもいつの間にか飲めるようになって、甘いものが欲しいときは好んで飲むこともある。だが今でもネクターが喉を落ちるあの感覚と一緒に、あの薄暗い家の記憶が一瞬だけ通り過ぎていく。

 

*

 ネクターが消えた自販機には新たにレモンスカッシュが追加された。ネクターのあのどろっとした感じとはだいぶ方向性が違う。ネクターが消えたなんて誰も言わずに、レモンスカッシュのボタンを押していく。

 炭酸は炭酸で苦手だし。なんて誰に言うわけでもなく頭の中で言い訳をし、わたしは自前の水筒を出した。