河原町星屑通東潜ル

短歌とエッセイ。Twitter https://mobile.twitter.com/moeori

SNSから戦争の足音が聞こえた

戦争反対。
そう言うには若いと思われるだろうか。
わたしが戦争を嫌う理由の一旦を先日『文芸高久書店』に掲載した。
しかし地方の小さな同人誌は外には届きづらいので、今回その文章をnoteに転載する。

日本の戦争の話ではない。
けれど戦争はこうして突然訪れる。
日本だけが例外だとは思わない。

下記の文章はわたしが聞いた戦争の足音だ。

 

***

オーロラは見えない 
Я не вижу северный сияние. А Вы?

河原こいし


独学で露語を学んで半年後キーウの街に落ちるミサイル


I love Anime.だから日本に行きたいと《このアカウントは削除済です》


平和とは何なのだろう両国で平和はともにмир(ミール)と綴る


ピロシキは複数形で本来は家族で食べるはずの単数


実際に喋る機会はないだろうロシア語講座を聞いている朝


停戦をウクライナ抜きで進めゆく民族自治をうたう戦争


革靴を食べても生き延びたかったと飢餓虐殺(ホロドモール)の歴史は語る


露和辞書の扉ページに戦争の始まった日の一行のメモ

 

***


ロシア語を独学で勉強している。もともと好きな漫画のキャラクターの影響でロシア文化に興味があったので、仕事に必要な資格を取り終え時間ができたタイミングで勉強を始めた。二〇二一年の秋頃、新潟県の上越市にいた頃の話だ。


新潟は地理的にロシアに近いので、新潟大学ではロシア語が学べる。上越のお友達の家族には新潟大でロシア語を習っていた人もいた。昔は直江津にロシア船が寄港したらしい。近所の呉服屋の旦那さんは趣味でロシア語を勉強していて、暇な時には直江津港までロシア船を探しに行っていたという。ロシア語の特訓として船から降りて町を歩いているロシア人に話しかけ、そのまま町の案内していたそうで、数年前までその呉服屋さんには時折ロシア人が訪ねて来ていたらしい。
そんな呉服屋の旦那さんから露和辞書や和露辞書を譲り受け、初心者用テキストを書店で買い、暇な時にのんびり勉強していた。大人になってからの仕事以外の勉強は自分のペースでやればいい。ロシア語は日本語とは言語体系がずいぶんと違うので、死ぬまでに『罪と罰』が原文で少し読めたらいいなという程度のゴール設定をして勉強していた。

 

二〇二二年二月、ロシアがウクライナに侵攻した。もともと二〇一四年からクリミアを不法に占領していただとか、そもそもソ連崩壊の混乱の中でのウクライナ独立の手続きはおかしかったなどなど、火種、あるいはすでに燃やされていた部分は探せばいくらでも出てくる。それらの近代史的な背景、あるいはもっとの昔からの根深い話も後で知った。だがその時はまだキリル文字を書くことにも慣れておらず、ただ手元には半年勉強して簡単な自己紹介ができるようになったロシア語のテキストと辞書があるだけ。そして、そのテキストの向こうにあるテレビの中で、戦争が始まっていた。

 

インターネット黎明期に義務教育を過ごしたわたしは、ネットを介せば世界のどこでも誰とでもつながることができるのだと当然のように思っていた。実際にSNSが発達した現代では外国の人とも簡単にメッセージを送りあえる。

 

《彼》はわたしのフォロワーだった。

 

彼はロシアの学生で、義務教育を終えたら日本に留学したいと言っていた(ロシアの義務教育は十七歳までらしい)。彼はまだ日本語がたどたどしく、わたしもまたロシア語が覚束ない。彼は日本語とその英訳を、わたしはロシア語とその英訳を、そうやって互いに勉強中の言葉でメッセージを送りあっていた。

 

「どうしてロシア語を勉強し始めたのですか?」
「好きな漫画でロシアに関係するキャラクターがいたからです。あなたは?何故日本語を勉強しているのですか?」
「僕も同じです。僕は日本のアニメが大好きです」
「それは同じですね。ところであなたの町も雪は降りますか?」

 

ロシア語と英語で書いたメッセージに新潟の雪原の写真を添えて送信した。上越は新潟県内でも有数の豪雪地帯だ。しかしiPhoneの向こうは冬将軍の国・ロシア。
かつて「浦塩」とも呼ばれたロシア極東地域の都市・ウラジオストクはロシアにとっては極東であると同時に南部地域とも言えるが、その緯度は北緯四十三度。これはほぼ札幌と同じ緯度になる。縦にも横にも広大すぎるロシアは国内に標準時をいくつも持ち、ロシア極東地域など日本との時差は最も少ないところでは一時間だが、ヨーロッパ寄りの地域では西になればなるほど日本との時差は開いていき、西の古都・サンクトペテルブルクと日本の時差は六時間にもなる。
どうやら彼はサンクトペテルブルクに近い西側で、そしてロシアの中でもずいぶん北部の町にいるらしかった。

 

「僕はアルハンゲリスク州にいます。ロシアでも珍しいオーロラが見える町だけど、今はまだ昼間です。外の雪の写真を送ります」

 

送られてきた写真には雪の中、ヨーロッパのやや田舎といった風情の建物が佇んでいた。アルハンゲリスクの緯度は六十四度。ノルウェーの首都オスロ、スウェーデンの首都ストックホルム、フィンランドの首都ヘルシンキ、これら北欧の国々の首都よりも北に位置する。アルハンゲリスクの写真では道路の除雪はされていたが、その町並みに人影はなかった。

 

「そちらの雪もすごいですね!いつかオーロラを見せてください」
「わかりました!あなたも富士山の写真があれば見せてください」
「わたしがいる新潟県からは富士山は見えません。でもいつか撮影して送ります」

 

そのメッセージの数週間後に戦争がはじまり、いつの間にか彼のアカウントは削除されていた。わたしが彼のオーロラを見ることはなく、彼もわたしの撮った富士山を見ることはなかった。

 

ロシア文化は好きだ。けれどそれはロシアという国家、もっと具体的に言えばロシアの政治家が好きなことにはならない。戦争が始まった後、SNSでロシア人女性が英語で「私は自国の政治家を恥ずかしく思う」と書いていたが、そのアカウントもすぐに消えてしまった。

 

ロシア語を話すフォロワーたちの投稿が消えて数ヶ月後、富士山が見える町に来た。それからずいぶん時間が経ってしまったが、相変わらずロシア語はまったく話せない。だが自分なりのペースで勉強は続けている。NHKのアプリで学習ラジオ番組「ラジオ英会話」か「まいにちロシア語」、あるいはロシア語のテキスト付属のCDを聴きながら朝の家事をすることが多い。

 

サブスクリプションで映画『エルミタージュ幻想』を見てわかる単語を拾う。流したままにしていたアニメでたまたまロシア語が出てくると振り向いてしまう。ニュースで流れる現地でのインタビュー動画の音声と字幕を照らし合わせる。そうやってロシア語に片足の爪先程度は浸らせている。

 

きっとこれから先、実際にロシア語で誰かと会話をすることはないだろう。エルミタージュを歩くことも、センナヤ広場の中央に立つことも、アルハンゲリスクのオーロラを見ることもない。

けれど、言葉も文学も自ら逃げることはなく、言葉の壁は越えられないと思った人の中にしか存在しない。そう思うことにして、その壁を見ないように、あるいは壁を壊すために、テキストへと目を落とす。

 

「Но он воскрес , и… (しかし彼は蘇ったのだ。そして…)」※

 

富士山を見たがっていた彼は、今どこで何を見ているのだろうか。

 

 

 

※1 冒頭の短歌は短歌結社誌『まひる野2025年5月号』掲載内容をもとにしたものです。
※2 引用元 ヒョードル・ドストエフスキー(原作)/望月哲男(訳・解説)『ロシア語対訳 名場面でたどる『罪と罰』』(NHK出版/2018年)

I am not a survivor, I am a living dead.

どうやら自分は虐待サバイバーと呼ばれる存在らしい。

らしい、というのはその呼び名がしっくりこないからである。

状況だけ見ればたしかに虐待から生き延びてはいるのだけれど、何故しっくりこないのか。

 

しばらく考えた結果「サバイバー」に違和感があるからだという結論を得た。

 

サバイブするためにはそもそも生きている必要があるのだ。

あの家にいたことを「生きている」とは表現できないというか、そういう実感がかけらもないので、生き延びたとは思えない。

わたしは僕を殺してきたのだから。

 

「生きてる!」という感覚は普通の人でも普段の暮らしの中でそうそう感じることはないだろう。

もう少し具体的に落とし込んで「生きていて良かった」という大きめの感動も頻繁に発生するものではないと思う。

 

しかし、さらに細分化して「楽しい」「楽しみ」まで下げたらどうだろう。

これは日常にあふれる感覚だと思う。

わたしも「このゲーム楽しいな」「あの本の続きいつかな」といった「楽しい」「楽しみ」はある。

けれど、そのために「生きよう」となったことがない。

 

「夏物の着物をもらったから夏までは生きようと思った」

とは有名な作家の言葉だが、わたしには同調しかねる一文だ。

「夏物の着物をもらったから(簡単には死ねないし仕方ないので)夏まで生きようと思った」

ならわかる。

 

「楽しみ」があったとして目の前に「安楽な死」を差し出されたら、自分は死を選ぶタイプだと認識している。

「平穏な死」に優先される「楽しみ」がない。

 

死ねないから、死ぬのにはエネルギーがいるから、消去法としてとりあえず死なないでいる。

死ねないのでとりあえず死ぬまではそこそこ楽しくしておくけれど、飽きたらやめよう。

そんなもんである。

 

リビングデッドの省エネ生活。

感情表現もエネルギーがいるので、1日の使用量を超えたらしない。

他人と会話をするのもエネルギー消費が多いので同上。

基本的に少し無理をしないと感情表現が平板で、無理をし過ぎると離人症の症状が出る。

(解離性人格障害のわりにはまともに社会生活を送れているほうだとは評価するけれど)

 

読書会を主催しておいて何をと言われても、そもそも他人と話をするのが根本的に好きではない。

文章を正確に読める人間は少ないし、余分なことばかり喋る人間はとてつもなく多い。

(クラスの全員現代文の問題で常に満点だっただろうか?炎天下でもお構いなしに校長先生の話は何故あれほど長いのか?)

一番身近な他人(本来は家族と呼ばれる立ち位置らしいが違和感があるのでそうは呼ばない)が破綻していたので、他者と分かり合うということは根本的に不可能だと信じている。

 

それでも何故わたしは本を読み、他人の話を聴くのか。

答えはおそらく、「他人というコンテンツから言葉を拾い集めるため」だろう。

 

言葉というものは個々人のオリジナルとして発生するものではない。

他人の紡いできた言葉を拾って、自分の必要に合わせて組み立て直す。

その「必要」部分は、人によって、状況によって変わる。

ゆえに自分一人ではたどり着けない言葉とその組み合わせがある。

だから、他人の言葉に触れる必要がある。

 

分かり合えなくても共生はできる。

同じ空間にいられないなら距離をとればいい。

お互いに分かるところ、分かり合いたいところ、尊敬したいところ、好きなところだけ拾えばいいはず。

誰とでも分かり合えるなんていう言葉は幻想で、分からないままの他人はいるという現実を直視するほうがよっぽど誠実だ。

 

距離の近過ぎる他人が苦手で、ほぼ敬語で話している。他人との物理的な身体接触には嫌悪感が伴う。

そのサインや文脈を無視する人はこちらからゆっくり距離を取っていく。

わたしの人生にあなたはいらないし、あなたの人生にわたしはいらない、そう感じるような、お互いに関わらないことが正解の人もいる。

そういう人の一部はわたしに怒る人もいるが、わたしはそういう人も数百キロくらい離れたところで元気に暮らしてくれたらいいなと思っている。

(なお、距離が取れないSNSでは躊躇わずにブロックする)

 

お互いの居心地のいい場所で、それぞれ一緒にいたい人と好きに過ごせばいいと思う。

 

かつて他人の言葉で殺されたけれど、5階の窓枠に腰掛けていたわたしを引き止めたのも言葉だった。

わたしはあのときのすべてを端的に表す言葉を探し続けている。

 

その言葉が見つかったら、今度こそ心置きなく死ねるのかもしれないし、本当の意味で生きられるのかもしれない。

結末は知らないが、サバイバーと呼ばれるリビングデッドは他人の言葉を喰らい続けている。

イベント主催として思うこと

 

ネットプリント、展示、読書会など各種企画を回している立場として、時折困った人に遭遇する。

 

それは《関係値を無視して迷惑をかけてくる人》だ。

 

公募制のアンソロジーでは今まで関わったことのない人も応募してくる。(もちろんそこから面白い人とつながりたいという意図もあるので、参加自体はウエルカム)

ただ、「こちらから声をかけたわけでもない人」が「運営に支障をきたす」のはNGだということは当然のこと。

締切遅刻、連絡なし、形式不備…いろいろなパターンがあるものだなあ…と主催を始めてから学びが多い。

 

わたしの企画はわりといろんな方から「丁寧に対応してくれる」と評判があるように、お節介系主催者である。

締切遅刻も「じゃあ3日間延長します!○日の○時までにください!」「締切遅れそうなら、締切前に連絡くれればおっけーです!」と企画全体に連絡するし、連絡ない方には個別に「いかがですか?」のメッセージをする。形式不備は「すみませんが、これが…」と訂正依頼もかける。

ここまでは公募参加者に対しても普通に行う通常営業だ。

 

しかし、公募で参加してきた人が延長した締切をさらに延長したり、企画そのものの趣旨に異議を唱えたりすることはわたし的にはアウトな行為だ。

 

ネットプリントにしても展示にしてもわたしには1円の得にもならない企画で、にもかかわらず休みの時間を割いて準備をしている。(展示に関してはパネル制作費など明らかに赤字)

そして、ネットプリントだろうと展示だろうと、やりたければ自分で誰でも企画できる。

わたしが無償で労力をかけた企画に文句があるなら自分で企画すればいいし、締切が守れないのも自分で企画すればいくらでも延長できる。

他人の払っているコストにタダ乗りしていませんか?

 

普段から関わりのある人なら「んもう、仕方ないなあ🥰」で許せることもある。それはその人のこれまでの積み重ねで、それもまたその人がわたしに払ってきた対価だと思う。

そういったやりとりや積み重ねもなしに、わたしがその人に労力を割く必要は感じられない。

 

自分でできない行為を他人にしてもらう、ということは常にリスペクトと対価が必要だと思う。

 

🍎

 

リスペクトが感じられない迷惑な方に関しては、わたしは仲良くさせてもらっている他企画の主催の方へお伝えすることもある。

あくまで「この人から○○されたことあるので、気をつけてくださいね」くらいで、その人がそのまま企画に参加できるかどうかは主催の方とその人との問題である。

 

仕事の世界でも「あの人は仕事はできるけど連絡よこさないから…」「コミュニケーション能力が必要な今回の仕事にはちょっと…」などといった理由で抜擢を見送ることもあると思う。

コミュニケーション能力も「能力」で、他人と関わるには必要な「技能」だ。

そこが不足しているなら、それを無視できるくらい圧倒的な別の能力を見せてほしい。

 

わたしから声かけをして企画に参加してもらう人はそういう人たちなので、遅刻しようとお金がかかろうと、わたしはその人に作品をお願いする。

 

わたしと相容れない考えなら、わたしとは別のところで好きなことをすればいい。

自分からわたしのところへ来るならば、わたしのルールの中で動いてほしい。

わたしが呼んでいない人がわたしの企画を曲げることは許さない。

(わたしから声をかけた人に意見を仰ぐことは多々ある)

 

上記の言葉に納得できないなら、どうぞ自分で新しい企画を立ててほしい。

あなたの企画の王様はあなただ。

勉強とタイパとコスパ

勉強はタイパが良い行為だと思う。

…こう言うと「その場で調べればいいのに」と言われることを想定した上で、それでも勉強は人生のパフォーマンスをあげるとわたしは断言する。

 

そもそも時間とは貯めておくことはできない。常に流れていくもので、人間はその中で何をするのかを決めることしかできない。

つまり、必要な時に必要な時間が確保できるとは限らない。

暇な時間、そのままだと価値がゼロの時間を勉強にあてる。すると必要な時に調べものをする手間が省ける。これはまさにタイパに優れていると言えるだろう。

 

勉強することは人生の質を上げる。

簡単な計算すらできないと買い物にすら困る。難しい税金の話などなおさらだ。

本を読まなくても生きてはいける。しかしメッセージアプリで読みにくい文章ばかり書いていては人と関わるのは難しい。

哲学もないまま生きる人生は空虚だと思う。そしてたいていの人生の問題は過去の人間も考えていて、本にまとめられている。

 

巨人の肩に乗る。本を読むということ、勉強するということは、過去の人たちの考えた土台に乗せてもらうことであり、高い場所へ行くためのショートカットだ。

 

そもそも「困ってから調べる」という人の「調べ方」は効率的なのだろうか?調べ方についても大学の司書課程でそのための講義がある。つまり、調べ方ひとつにしても勉強をしないと効率は上がらない。

 

努力せず生きるのはそれはそれで楽だろう。その場所で何不自由なく何一つ文句もなく生きられるのであれば、という条件つきではあるけれど。

 

物を買うにはお金がいる。遠くに行くには時間がかかる。世界は等価交換で成り立っていて、対価を払わないことには何も成し遂げられない。

 

したいことがあるのならば、行きたい場所があるのならば、やはりそれ相応の動きをしなければならない。そのための支払いとして、無駄にしている時間を勉強に費やす。隙間時間で本を読む。そのままだったらパフォーマンスがゼロだった時間が、将来の投資になる。

 

勉強はタイパが悪いコスパが悪いと言い切る人は、そのほうが都合が良いからそう言うのだと思う。

愚かな人間のほうが騙しやすい。自分で考えない人間のほうが簡単に操れる。

 

SNSで煽られた結果として先日の選挙で何が起きたのかを我々は見たばかりだ。

感情を煽ることは簡単だ。煽られないためには反論するための知識や信念が必要だ。つまり、中身のない人は簡単に流される。

そうして、煽った人間が選挙後に何を言っているか、試しに調べてみると良いだろう。それが、彼ら彼女らが有権者を騙して煽って求めたものだ。

 

次に騙されないために、もう不必要に煽られないために、少しでも知識を増やす。歴史は繰り返すものだ。過去の歴史に似た事例はないのか?そもそも教科書に書いてあった選挙権を得るまでの課程は思い出せるだろうか?……いちいち調べると時間がかかるでしょう?おおまかでも流れがわかっていれば、調べるにしてもあたりがつけられてショートカットができる。

 

学校での勉強が終わっても人生は続くし、世界は進んでいく。アップデートをやめてしまえば、取り残されてしまう世界だ。自衛のためにも、少しずつでいいから、勉強をしてほしい。

目先のタイパ・コスパを取って、将来の可能性を潰さないでほしいと思っている。

夏の人

月一で通院している。

入院用の病棟もある大きな病院で、診察室のある階へ向かうエレベーターに乗り込んだ。

 

ドアが閉じると、同じエレベーターに乗っていた入院患者さんから

「外は暑いですか?」

と話しかけられた。

 

半袖のワンピースで日傘を持ったわたし。

患者用のパジャマを着ているその人にわたしの服は夏を伝えたのかもしれない。

 

「ええ、暑いです。ただ、昨日よりは少しはましで、そうですね30度くらいでしょうか」

 

この人に“外”を届けたくて、「暑いです」だけでも答えになるのに、少し言葉を足して伝える。

 

「そうですか…」

 

淡く微笑んでその人はわたしより先にエレベーターを降りて行った。

 

この1分にも満たない間だけ、わたしは誰かにとっての夏だったのかもしれない。

推しと距離感

なまものの推しがいる人は気苦労が耐えないんだろうなあ…とソシャゲのストーリーを進めつつ、他人事としてニュースを見る。

 

同人誌をビッグサイトで売る程度にはオタクなので、推し活という概念はある程度わかる。(中学の修学旅行コースを勝手に聖地巡礼コースにした程度にはオタク歴が長い)

けれど、生身の人間を推したことはほぼなく、2次元のキャラクタばかり好きになる。今後も好きで居続けるだろうと確信している二人に関しては、一人はそもそも人外だし、もう一人も「実は人間じゃなかったんだよん!」と突然作中で言われても「そっか〜!納得〜!!」と思えるキャラである。(そもそも完結しているシリーズなので新規発言はもうない……供給……)

生身の人間として唯一好きな人に対しても、作品を介さずメディア露出するタイプの職でも性格でもなく、何よりもご本人を直視するのはわたしの信仰上の教義に反するので、直接ご本人に会えるイベントには行かず、遠くから崇拝し続けると決めている。(幻覚は冷めないほうが楽しい)

 

生身の人間を推している人は常に新規ボイス・新規絵が供給されるけれど、その分常にリスクもある。

大変そうだなあ……と思いつつ、落ちる沼は選べないもんなあ……と今日もソシャゲのガチャを回している。

言葉を食む

 言葉は好きだが人間には興味がない。

というと露骨な書き方になってしまうのだけれど、端的に言うとこうなってしまう。

 

 発する言葉や物語(その人が理解している“自分”というストーリー)には興味があるけれど、提示されないし文脈から読み取れない(あるいは読ませようとしない)過去には興味を持てないし、その人が言葉として表出しない感情にもそこまで気が付かない。

逆に言葉として発せられても、それが感情のみで物語として成立しないもの(その場限りの感情で前後が読めないもの、理論として破綻しているもの)には価値を感じない。

 この人の言葉は聞きたいと思えば、より深く読み取れるように勝手に注視するけれど、この人の物語は読まなくていいと思えば当たり障りない範囲でそれぞれ好きなように生きていれば良いと思う。(なので、関わらずに生きることを選択する)

 

 完璧な言葉があったとして、それを瑕疵なく欠落なく完全な形で受け手が読めるかというと、そうとも限らない。(「止まれ」という簡潔な標識ですら無視する人間はいる)

なのでわたしの言葉を理解できない人もいれば、興味を持たずにスルーしていく人もいる。別にそれは自由なので、どうとも思わない。

しかしわたしの言葉に対してわたしの想定を大きく超える範囲で曲解したり、「こういう言葉を言え」と強制するような人には、「それは違う」「それはしない」と言う。

わたしの拒否に相手が不満を感じても、人間の感情そのものに対して興味はないし、わたしに訂正や発言を要求するのであればわたしが納得する言葉を与えればいいだけである。(わたしは納得できれば簡単に手のひら返しをする性質だと理解している)

わたしを納得させられないのにわたしに何かを強制することをわたしは許せないので、抗議するか説明を求めてしまう。しかし、そういう人は感情で生きていて、論理や物語がないので、わたしは納得できないし、向こうはフラストレーションを溜めるだけなのだが、わたしは感情に重きを置かないので相性が悪い。

なのでそれぞれお互いの好きな場所で距離を保って生きればいいと思う。

わたしは勝手に本を読んで犬を撫でて暮らすし、人と群れたい人は街で楽しく遊んで暮せばいいと思う。

わたしの主食は言葉で、あなたはそうではない。それだけのこと。

誰とでもは分かり合えない、ということだけわかっていればいい。

 

…というようなことを思っていたら、感情だけでストーリーも驚きもない発言に対して

「この人、情報量ゼロですわね…」

と思う癖がついてしまったのは少し直さねばと反省している。