河原町星屑通東潜ル

短歌とエッセイ。Twitter https://mobile.twitter.com/moeori

挽歌としての相聞歌

 虚構のラブストーリー。

木下龍也と鈴木晴香の共著歌集、『荻窪メリーゴーランド』の帯の言葉だ。
 
 虚構と現実ではやはり現実の方が重みがあるとは思う。けれど虚構でしか描けない風景も存在するし、望まぬ現実があるのと同じくらいに望んだけれど訪れなかった現実もある。
 
 わたしの恋愛の話を他人にすると「ドラマみたい」「小説?」など言われることが多い。虚構めいた現実を生きてきたという自覚はある。
それを短歌に変換するにはまだ技術が足りない。どうしても起こったこと以下のものしか詠めない。プロの歌集を読むと31文字でこんなに広がりがあるのに、何故わたしの書いたものには広がりを感じられないのか。奥行きであるとか、深みであるとか、伝えたいものが伝わらない。上澄みと言うにも足りない。搾り滓の滓のほうだけ。絞った果汁はどこへ行ったのか。
仮にわたしが詠みたい歌を詠むだけの技術を手に入れたとして、わたしはその時、あの恋を歌にする覚悟があるのだろうか。自分の心を切り売りすることにならないだろうか。それとも未来の自分が傷つくことを承知して、あの日々を形にしたいと思えるのだろうか。わからない。
 
 技術もないし覚悟もまだない。なのでどこにも発表はしないけれど、『荻窪メリーゴーランド』を読みながらわたしは自分の恋を歌集に編むなら、と脳内で編集作業を始めていた。書かずには詠まずにはいられない自分の性質が、歌集を作る前の手始めにこの文章を書かせている。
 
 虚構めいた現実を理想通りに歌えたら、それはきっと過去のわたしへの手向けになる。
 


 まだわたしが僕という一人称だった頃、僕は恋をしていた。
とある事件があって、「僕」は死んでしまった。

それから記憶のない数年があって、死んだように生きていた数年がさらにあって、六年半前からわたしはわたしを生きはじめた。
 
死んだ僕を、僕が満足する形で葬る。そうすればわたしは軽やかに生きていける気がしている。


そのために、わたしは相聞歌の顔をした挽歌を編む。