自販機のそこにいたはずネクターは覚えているのは僕だけだけど
#短歌 #tanka
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職場の自販機からネクターが消えた。
ネクターが消える数日前のこと、先輩パートのお二人が自販機の前で話をしているところに通りかかった。
「あ、こいしちゃん。こいしちゃんはネクター飲む?」
「はい、ネクター好きですよ」
「え、そうなんだ。そっち派なんだ…」
そっち派とは……。たしかにわたし以外でネクターを飲んでる人をこの職場で見かけたことはないけれど、そんなに少数派なのだろうか……。
と思っていたらネクターは自販機から消えてしまった。
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実家は旧家の分家だった。近所に本家があって、本家は平成の途中まで囲炉裏をそのまま残してあるような古い建物だった。本家に用事がある父に連れられ、その古くて薄暗い家に何度か立ち入った記憶がある。本家には自分とどういうつながりかもわからないおばあさんがいて(父方の血縁関係はやたらと複雑だった)、会うたびに毎回「大きくなったねえ」と言ってネクターを差し出してきた。
本家はエアコンなんてない古い家なのにいつもひんやりとしていて、大人たちが何か話をしている間、わたしは縁側でネクターを飲んでいた。父と祖母も以前は本家に住んでいて、祖母はたまに本家の昔話をした。
「本家の二階にはお蚕さんがいて、夜中になると、しょりしょり…しょりしょり…と桑を食む音だけが聞こえたもんだ」
「戦争の時には蔵にしまってあったご先祖様の刀も持っていかれちまった」
ネクターの缶を両手に抱えながら、後ろを振り向く。二階から今はもういないはずの蚕が桑を食べる音が聞こえるような、薄暗い部屋のどこかに日本刀がきらめいたような、なんとなく薄気味悪いものを感じ取って、それを振り払うように縁側に向き直る。
ネクターをくれるおばあさんと祖母はそこまで大きく年は離れていないように見えるが、その二人の関係も知らない。暗がりで話す親族を遠目に見つつ、よくわからないということはこわいことだと、ぼんやりとわかった気がした。
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どろり、としたネクターの喉越しが昔は苦手だった。本当に苦手だったのは喉越しではなく、ネクターを飲むと思い出すあの薄暗さなのかもしれないけれど。
本家の建物は平成の後半に建て直され、普通の建物になった。わたしはその普通の本家には足を踏み入れたことがない。
ネクターもいつの間にか飲めるようになって、甘いものが欲しいときは好んで飲むこともある。だが今でもネクターが喉を落ちるあの感覚と一緒に、あの薄暗い家の記憶が一瞬だけ通り過ぎていく。
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ネクターが消えた自販機には新たにレモンスカッシュが追加された。ネクターのあのどろっとした感じとはだいぶ方向性が違う。ネクターが消えたなんて誰も言わずに、レモンスカッシュのボタンを押していく。
炭酸は炭酸で苦手だし。なんて誰に言うわけでもなく頭の中で言い訳をし、わたしは自前の水筒を出した。